katuskazan高雄政経ブログ

東京下町・淺草から台湾高雄にワープした活火山の言いたい放題&宣戦布告・「支那のプロパガンダと 【歴史戦】を戦う」「負けるか?支那外交部の【口撃】」

バシー海峡に眠る英霊と船 歴史が散文になった

大東亜戦争の終わりは、 同時に日本国民が大東亜戦争を歴史として考察する手法を封印してしまった。 それは、 本来社会科学として歴史的考察を加える義務を自ら封印して半世紀以上になるます。 このけっか、日本人は、歴史を悲劇として考察をすることを強いられた印象を払拭できないまま、 現在にいたっているのではないでしょうか?

かくして、バシー海峡の歴史は日本国と日本人には、 痛恨、慟哭のの海、 海域、 海峡として、散文として文筆家の手に委ねられました。



バシー海峡を慟哭の海と呼ぶこの海域は、バシー海峡の悲劇 - NAVER まとめmatome.naver.jp/odai/2140194619792471801)を引用すれば

 【太平洋戦争後半には、米軍潜水艦が多数配置され、多くの日本輸送船を沈めたことから輸送船   の墓場と呼ば れた。】
 【この愚かな輸送作戦で、実に25万人の命が失われた。】
 【5千トン以上の輸送船、艦艇はほぼ200隻以上が撃沈された。】



世界を二分し、後の世界史と地政学的構図を一変させた、巨大な歴史のベクトルであった【大東亜戦争】は、 日本人は歴史的考察の選択よりも、 歴史を多くの散文にしてしまったようです。

社会科学的考察を阻んだものは、 大東亜戦争開戦に至る世界史としての考察を、勝利者が封印し、 事後法に根拠をく東京裁判の総括を阻み、 いたずらに安易な平和意識を高揚することで、 自らを知識人に刷り替えてきた、日本のいびつな社会構造を見てとれます。