katuskazan高雄政経ブログ

東京下町・淺草から台湾高雄にワープした活火山の言いたい放題&宣戦布告・「支那のプロパガンダと 【歴史戦】を戦う」「負けるか?支那外交部の【口撃】」

1991年比国がアメリカ海空軍基地を拒否した背景

ピナツボ山

いつも、当ブログ「へ「のご訪問を感謝致します。

このところ、小生のPCが悪性のウイルスに感染し、 一台はOS再インストを余儀なくされ、 もう一台は性悪な中華製と言われている【YAC】なる食いついたら離れない、スッポンのようなウイルスに嵌められました。 
台湾高雄市電脳街にある【DELL】代理店最終的に対応していただき、こちらはOSの再インストは免れました。

日頃より、 対岸の反中、反共を正義として、微力な主張をしてまいりました結果ではと、少々疑心暗鬼になっております。

今朝、普段使用しないiPadで、URLの打ち込みより、検索のほうが早いと思い検索しましたら、意外にも小生の姉妹ブルグ【フィリッピンの基地・スービック海軍基地】(5月立ち上げ)は、
キーワード 【基地】【スービック】のGoogle 検索でトップページの2位になっておりました。

 1位は【スービック海軍基地Wikipedia】ですので、ここらあたりが限界だろうと思っております。 以上をご案内いたします。



■■■ 1991年フィリッピン国内の民主化運動の高まりから、アメリカ空軍クラーク基地と海軍スービック基地使用継続がフィリッピン上院で拒否され、両基地は1991年11月26日に変換されました。

上院はなぜ拒否をしたのでしょう? コラソン・アキノ大統領を誕生させた民主化運動の高まりが、定説になっています。 先日、あるブログを読んで、教えられました。


全ては、1991年4月のピナトゥボ山の火山爆発から始まりました。


当時、米比両国は、基地使用継続交渉の最中でした。 クラーク空軍基地は降りしきる火山灰で使用ができなくなり、兵員家族はスービック海軍基地に避難しました。


爆発した火山の被害から逃れようとしたのは、クラーク基地に米軍将兵家族だけではなかったのです。

多くのフィリッピン人避難者もスービック海軍基地に避難しようとした時に、スービック海軍基地の門は、閉ざされたままだったのです。


このことで、基地はフィリッピン人のために存在してたのではなかったことになり、これが民主化運動を更に高める結果になり、 上院は継続を拒否したのです。


アメリカ軍の撤退による南シナ海におけるシーパワーの空白により、江沢民時代の中国は1994年秋にはスプラトリー諸島のフィリピン側海域にある、ミスチーフ礁(美済礁)に構造物を建造して占拠し、1995 年 2 月、フィリピンが中国によるミスチーフ礁占拠を世界に公表することになりました。